●口や手を使って“見る”工夫をするKくん
遠くを見ながら動き回り、じっとしていることが無く、机に向っての学習など考えられなかったKくんだった。でも、ものを“見る”ためには驚くほどの工夫をする。机を並べて隙間から覗いてみたり、机の角をくわえるようにして向こうに広がる空間を見たりする。口を使って手を使って、ものを“見る”ことに没頭している。
私事ですが…子どもの頃、授業に飽きると両手を目の前にかざして指で枠を作り隙間から教室や黒板を覗いていた。すると、現実が遠いものに、まるで他人事のように見えて面白く気がまぎれた。今思えば、静かに現実逃避していたということか…
Kくんのように机の角をくわえられる位置から向こうを見ると、机が途方もなく広い地平に見えてくる。遠近法で描かれた絵画のなかの消失点を見つめるような視線になる。話は飛ぶが、ジョルジョ・デ・キリコという画家の作品には一つの絵の中に複数の消失点が現れる。左右両脇にある街並みが遙か向こうの稜線に向かって急激に遠のいていき、それぞれ別の消失点に向かっている。手前に置かれた貨車にいたっては平行線で描かれているので消失点自体を持たないことになる。一つの画面の中に、複数の地平線が設定されており、見ている自分の足場がぐらついてくるような不安な感覚を持ってしまう。このような空間構成が気になり無限だの反復だの、いまだに私はずっと考え続けているが、もしかしたらKくんも同じように、ものを、空間を見て、何かを考えているのではないかと思う。

そんなKくんが○の輪郭線のはめ板を手にすると、手元の枠の中にはめ込んでぐるりと回しながら見つめるようになった。手の使い方が変わり、遠くを見ていた視線が手元に来た。円形の輪郭線はぐるぐる無限に回り続けるが□の輪郭線は回せない。そこで手に取って二つの切片を合わせて□を作ってじっと見る。手、口、目の使い方がうまく重なってきた。触れられない遠方から、とても現実的な、触れることのできる実感のある場所にもどってきた。

●解読できない暗号を書くJくん
じっと見ていると手紙のようにも日記のようにも見える。ひらがな、かたかな、数字、漢字、読点らしき記号が並び、日付のような数字も書かれている。Jくんはこれをなかなか他人には見せようとしないとのことだから、人に何かを伝えるための手紙ではないのだろう。
何か自分のために書き残しているのかな?

ある日、そんなJくんが大好きなゲームをしたくて、「スタート」と書いた紙を持ってきたとのこと。人には絶対自分の書いた文字を見せようとしなかったのに、とうとう、人に伝えるための文字を書き始めるのだろうか?
ことばも、自分の内側へと落とし込んで深まっていくもの、人と伝えあいたいと外側に向かっていくもの、様々です。Jくんに限らず、だれもがそのような「ことば」を持っているのだろうと思います。
研究会では、今、Jくんが書いている文字を大切に受け止めること、それと同時にだれにでもわかりやすい文字を書くことができるようになるように、働きかけ・学習を考えていこうと、様々な案が出されました!
●寝たきりで動きの少ないAさんが体を起こしたら
Aさんが椅子に座り机に肘をついて、体を起こしてくる。両足も床についている。体を起こすと同じ人とは思えないほど表情が変わる。特に視線。ぼんやりと見えている状態ではなく、見ている。これは受け身から自発への変化のように思われました。見ることでまた体が起きる。前後、左右に体を動かすことができれば…このことをI先生は、目で揺らすことができるのでは、と言っていました…真ん中ができる。そうすれば二つの物の一つを選択することができるのではないか。選択することができたら、たとえば見本合わせのような方法で外へ向かうやり取りができるかもしれない。Jくんが外へ向かう言葉を獲得していくことと同じほどの意味があると思う。
●共生社会というけれど
子どもたちの行動を見ていると、思わぬところで、私も似たようなことをしたことがあったかなと、くすっと笑ってしまうことがあります。人それぞれ違うのに、ちょっと引いて見てみると、みんな似たようなことをしている。個別の事例でありながら節々に普遍的なことが含まれている。そして何より、ここで紹介したように、Aさんのわずかな動き、Jくんの文字が持つ意味、Kくんの思いがけないものの見方など、子どもたちの行動の根底にあるものに感心しながらなかなかそれらを正確に言葉で表しきれないもどかしさをいつも感じています。
みんな違うけど似たようなことをしている、寝たきりの子どもが記号としての「ことば」は持たなくてもこんなにすごいことをしている、それどころか「ことば」を持っている人には感知することのできない、微細で奥の深い世界を知っている…ことに気付いていかないと本当の意味での共生など実現しないのだろうなと思います。共生社会の実現については様々な角度からのアプローチがあるのでしょうが、学習を通して子どもたちのすばらしさを語れるのは教員の特権でもあるのだから、きちんと語っていかなければ!
2026.8.11 間野 明美
